橋本駅ひかり整骨院院長の小林です。
当院がある大好きな〈相模原市〉の歴史をご紹介します。
【相模原の歴史】
〇原始時代の相模原
人々が相模原に住み着いたのは3.5万年前と推定されています。
相模川沿いや境川、鳩川沿いから、旧石器時代の石器が出土しており、田名向原遺跡は国史跡に指定されました。
縄文時代の遺跡は、境川、鳩川、八瀬川、相模川沿いなど市内百数十か所の地点から発見されています。
弥生時代の遺跡はあまり見られず、上矢部や上溝などから土器片が発見されているに過ぎません。
〇平安時代の相模原
全国各地に武士団が形成され、相模原市域南部は相模国高座郡の中部にいた渋谷氏、相原・小山・上矢部・田名は武蔵国横山庄(現在の八王子市域の多摩丘陵)を本拠とした横山党の影響下にあったと考えられています。
〇中世の相模原
鎌倉時代末に時宗の開祖一遍上人が当麻に来たと考えられ、その故地に二世真教上人が無量光寺を建立しました。
南北朝時代は、足利直義の家臣淵辺義博が淵野辺を領有し、室町時代には、長尾景春の乱に際し磯部に城が築かれ、戦国時代の相模原市域は、小田原北条氏の支配下に入り、当麻に関所が置かれました。
〇江戸時代の相模原
検地によって17の村が成立し、相模野の開発が始まり、幕末までに上矢部新田・大沼新田・淵野辺新田・清兵衛新田などが開かれました。
江戸時代の後半には養蚕などの生産が向上し、俳諧など豊かな地方文化が育まれることとなりました。
〇明治以降の相模原
明治22年の町村制施行により、清兵衛新田を含めた市域の18か村は合併して、相原・大野・大沢・田名・上溝・麻溝・新磯の7か村となりました。
明治41年横浜鉄道(横浜線)、昭和2年小田原急行鉄道、昭和4年小田急江ノ島線、昭和6年相模鉄道(相模線)が開通しました。
昭和16年4月、上溝・座間・相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯の2町6か村が合併し、面積108.71平方キロメートルを有する当時の日本最大規模を誇る町、相模原町が誕生し、
昭和29年、全国で453番目、神奈川県下では10番目の市として相模原市が誕生しました。
当時の人口は約8万人、予算規模は約2億2千万円でした。
平成12年に人口60万人を超え、平成15年には中核市に移行し、平成18・19年の津久井地域(旧城山町・旧津久井町・旧相模湖町・旧藤野町)との合併により、人口70万人を超え、平成22年4月に政令指定都市に移行しました。